自分で自分の町(空間)をデザインする

2年程前から、歩コミを含めて、わたし(ローカルみやこ)は「○○しやすい町づくり」をテーマに、活動を続けてきました。私なりに答えを出して、次に進もうと、活動経緯と結果をまとめたお話です。

〇〇とはそれぞれ個人が言葉を作ってみてください。これを読んでくれているあなたも「自分はどんな町(場所)で生きていきたいか?」「どんな人たちに囲まれて生きていきたいか?」などを考えたことがあると思います。誰かが創った町に暮らしている私たちは、こうしたい。これがないと、声を上げるだけになっていないかな?と思いました。私は何年か前まで、「変わらない町」「こんな町」と、レッテルを貼り、自分が住んでいる町を卑下していました。同時に悲しくなったし、悔しくなったし、反省もしました。「私はこの町のために何をしてきたのか?」答えは「なにもしてこなかった。」でした。私は心を入れ替えて、自分が自分の町(空間)をどこまでデザインできるかに挑戦することにしました。私の仮説は「○○しやすい町づくりについて考えて、動くと、答えを得るころには、自分の住み良い町になっているかも」でした。


○○の例えは、

みんなで子育てしやすい町?

生き方が学びやすい町?

仕事仲間が作りやすい町?

女性が働きやすい町?

情報をゲットしやすい町などなどなんでもOKです。

私は、個人的に「自分らしく生きやすい町」を目指していました。


この私の町づくりは各人がそれぞれ感じることであって、個人差があります。「わたしの自分らしく生きやすい町」は、「あなたの生きやすい町」にはならないことを理解してこの話を解釈してください。これは自分のために、自分の生きる周辺をデザインするお話です。

私個人の結論は「○○しやすい町」(どの○○が入っても同じ)とは自分の理解者が増えていくように、人、団体、会社、場所、コト、と繋がる流れを作っている人は、○○しやすいのかな!という答えになりました。(結局、不動な結果に(笑))

【基礎編】

①外に出る。

②自分を知ってもらう。(自分と向き合えてない人はまず自分を知る)

③自分を肯定してくれる人を大事にする。

④繋がりを作り続ける。

⑤大切な人には「ありがとう」を伝える

私はこれを、テーマにそった環境で出会う人との繋がりで繰り返すと、自然に「〇〇しやすい町」に感じることができると思いました。でも仮説は1/3くらいしかあったっていませんでした。自分らしく生きやすい町は、人生をかけて、これから創る感じです。



【過去の自分にありがとう!ここからは自分卒論】そもそもの、ことの発端は

あまり見た目で分からないですが、ADHDを持っている私は、かなり、かなり生きづらさを感じ、田舎を苦戦しています。典型的な「気づかれない大人の発達障害」です。周りと違った発言、言動を指さされたり、感性、感覚、価値観の違いから、誤解を招いたり、理解されなかったり、怒られたり、注意されたり、言い返せなかったり、あきらめたり。

男性の浮気は許されるが、女性の浮気は許されない、みたいな、落ち着きのない男性は、やんちゃで見逃され、落ち着きのない女性は、ずっと理解されない視線と戦わないといけない状態に感じます。今まで、気力体力をだれの基準かわからない「ふつうにあわす」ことのために使っていました。


【小中学時代】幼いころもストレスだらけでした。学校でも、とにかく一生懸命勉強しても、点数が取れない。不注意でよく怪我をしたり、衝動的にすぐ行動するから失敗しかしなかったり、注意散漫でモノ・コト忘れがひどかったり、10代で「自分に疲れる」経験を山ほどしました。生きることに、不安になりました。どう自分を理解してもらおうと考えても言葉に出来ず、何度も、誤解されたままに終わることが多くありました。自分でも自分を理解できてませんでした。ADHDをよくよくしれたのは、30才をすぎてからになります。

両親の接し方には後々、感謝することになります。テストの点数で怒られた記憶はありません。怪我をしやすい私を何度も手当をしてくれました。こんな私をおかしいとも否定しませんでした。私を「良く気が付くやさしい子だよ」と言ってくれ、十分な助けと愛情がありました。そして小学生時代はたくさんの習い事をさせてもらいました。英会話・ペン習字・オルガン・スイミング・バレーボール。そして母からも絵を描く楽しさや生け花、裁縫、勉強を学んだ記憶と父からは農場作業を学びました。(乳牛を飼って農家をしていました。)おじいちゃんから、おばあちゃんからもたくさんの生活の知恵を学びました。それでも学んでも学んでも、自分を表現しきれず、満足できなかった気持ちを覚えています。

【高校時代】高校生になると、一気に厳しい現実にぶち当たりました。卒業後、就職も、進学もしませんでした。お金を貯めて環境を変えるために、ここを出ようと思いました。とりあえず、東京かな?と思っていたら、母が「アメリカは?」となり、19才の時に初めて、日本をでました。その時にすごく開放感があって自由を感じました。さすがアメリカ(笑)と思いました。

【20代】時は過ぎ、私は世間のいう幸せを期待して、結婚、子育てを望み、自分の家族を持つことができました。でも、不安と焦りが募りました。「自分は子どもを育てる資格があるのかな?」「この子達に間違ったことを教えないかな?」そんな気持ちを支えてくれるかのように、両家の両親と夫は「私の子育て」から「みんなで子育て」をしてくれています。本当に感謝です。

【30代】そんなこんなで、時がすぎて、3~4年前に話を戻して、我が子と向き合っていると、ADHDという言葉と出会い、なんかスッキリしました。「これやん!」って「自分だけじゃなかったやん」ってなりました。やっとです!やっと自分の不思議がわかってきました。ここから人生の快進撃が始まりました(笑)。今まで逃げてきた社会と向き合わないと、と、母親としての意地なのか、責任なのか、一歩一歩、挙動不審になりながら、サークルや活動に、顔を出していきました。視野が広がると、私の町には変わり者だらけ(笑)癖の強い人だらけ(笑)みんな素敵です!さらに外に目を向けると、「多動力」を書いたホリエモンさん、「プぺル」のキンコン西野さん、「2チャンネル」のひろゆきさん、「YouTuber」のマコなり社長さんなどなど、たくさんの起業家が「ADHDあるよ」とカジュアルに発言されていて、またその症状を活かした自然な働きをされていて、その世界観に入っては頷いていました。(男性が圧倒的に気軽に使っていて、女性はまだまだ、少数派が気になってます。)彼らの、ビジネスやサロンに興味があると言うより、価値観に共感しています。

初期育児中に社会にでた感想は、苦戦しまくりました。失敗も次から次へと。一つのミスにへこんでいる時間がないほど、目まぐるしい毎日を送っていました。今になって、反省することがたくさんあります。人間関係も簡単ではありませんでした。今も簡単な人間関係はありません。無意識に傷つけていることも、傷ついていることもあります。言葉・態度・表情、ひとつ、ひとつに気になりすぎて神経質になる時もあります。それでもヒトやコトやバショなどと繋がることをあきらめませんでした。自分らしく生きてそうな方や、なにか秘めている方たちの話を聞いては生きるヒントをもらっていました。

そして、振り返ると、私を肯定してくれる人があらわれ、たくさんの繋がりができて、繋がる流れがある今、昔よりも、私らしく、生きています。みんなのご理解があってと思います。私と知り合ってくれて、友達になってくれて、ありがとうございます。みんなのやさしさ、働き方、考え方、生き方からたくさん学びがあります。そして家族のみんな、毎日ありがとうございます。でもまだまだ、探求したいことがり、疑問も尽きなくて、動き足りないと感じています。(笑)もっと動き回りたいです(笑)

最後に、もしまだ、自分の住んでいる場所に不満がある方は、自分の町を自分のためにデザインしてみてはいかがでしょうか?


 

 

ちょっとADHDが気になる方へ

私のADHDの症状は

・過集中(ゾーンに入ったら、止まらない、止められることにストレスを感じる)

・時間管理が苦手

・なんにでも疑問を持ってしまう。(どうして?、なんで?が止まらない、気になったら追及する)

・小学生並みの計算・漢字ができないときがある。(これはもうネタ)

・衝動的(色んな計算をしないまま、すぐに行動する)多動力?多失敗?

・手順が多い事務的作業はあきらめる

・空想の世界を作るのが好き

などなど

ADHDにはタイプがあり、また、幼少期と成人期でも変わってきます。興味のある方は、自分で調べてください。情報がありすぎて、ここではピックアップできません。

もし、ご本人さま、お子さま、家族さまで似たようなコトで悩まれてる方がおられましたら、あって話しましょう(^^)実はみんな、特別な個性があるのです。(注)専門家でもカウンセラーでもありません。

最後に個人差があると思いますが、私の受け止め方は、ADHDが全てを語るのではなくて、私の性格の中にADHDもある。ぐらいのライトな感じです。文にすると重たくなるなぁとちょっと心配になってます。ごめんなさい。そしてADHDという言葉に抵抗がある方は個性と翻訳してお読みください。

また、これについてもうあまり重たく悩まなくなったので、自己開示しています。気軽にこの話題にふれてくれても大丈夫です!最後まで読んでくれてありがとうございました。